それは
それはあっという間で瞬間で刹那だった。息を吸ったか吸い始めていないか、瞬きを一回したかしていないか、それくらいの長さ。いや、もしかして、ほんとうはそれよりもっともっと短かったのかもしれないけれど、わたしにははっきり思い出すことが出来なかっただけなのかもしれない。それほどまでにその行為はそれほどに早くてそれほどに単純明快なものだったからだ。だからといって、その短さに比例して触れたか触れていないかも分からない、なんてことは無かった。おそらく、彼に押し付けられるようにして何かがわたしの頬に優しく触れたから、その衝動でわたしの頭が動いたかどうか疑うくらいほんの少しだけ揺れたというだけの事が起こったんだったと思う。ほんとうに一瞬の事だったから、さっきまで頬に彼の唇の感触があったはずなのに、勘違いだったのではないかと自分を疑ってしまうのが不思議で、なんとなく面白い。とりあえず彼に近いほうの頬をこれまたそれに準じた手で押さえて、何も言わずに彼を見てみる。もちろん彼からのあの行為は突然の事だったし、びっくりしていたのもあったから、わたしはおそらく驚いた顔をしているのだと思う。彼はわたしの視線を受け取ると、目を細めて、大人びているようで可愛らしい笑顔を浮かべた。
「ごめん、柔らかそうだったから」
つい、そう言って錫也はまた微笑んだ。そこに恥じらいなどは見受けられない。そういえば、錫也はわたしと付き合うようになってから、やけに大胆というか、自分の思いを素直に発言したり行動するようになったように思う。だからといってわたしがそんな錫也を嫌いだというわけでもないし、むしろ我慢されるよりも、言いたい事があるなら言ってくれるほうが、嬉しいので問題は無いわけで。けれど以前の錫也なら、柔らかそうだと思ったくらいじゃ、頬にキスなんかしなかっただろうな、とわたしはぼんやり思うのだ。「びっくりした?」ナイルブルーの瞳にきらきら輝く星をいくつか浮かべて、錫也はわたしを見る。なんだか今の錫也は、いたずらっ子みたいだ。それを見てかわいいなんて口に出せば、錫也は怒りはしないだろうけど、おそらく複雑そうな顔をするだろうから、あえて言わないで心の中だけにしまっておく。「そんなの、びっくりしないわけないよ」わたしがそう言って「そっか」錫也が続けて言った。
「あっという間だったから、余計かな」
「あー…まあ、そうだな」
「でしょう?」
「…なあ」
「なに?」
「もう一回、していいかな」
「…どうしてそうなるの」
「いや、よく考えたらほんとにあっという間だったから」
確かにあっという間だった。あっという間で瞬間で刹那だったけれど、それがどうしてもう一回キスをする事に繋がるんだろう。わたしは錫也が好きだし、錫也からの優しいキスも好きだけど、ここですぐ良いよと答えてしまったら、モラル(だよね?)とか女の子としてのいじらしさが擦り減ってしまう気がしたので、わたしは納得出来ない表情をして錫也を見た。怒っているわけではないので、睨んではいない。
「は、好きな人にはもっと触りたくならないか?」
「……………」
なんて狡いのだろう。なんて言葉の使い方が上手な男の子なのだろう。いつの間に錫也はこんなに言葉の使い方が上手な男の子になってしまったのだろう。好きな人に触りたくならないのと聞かれてしまえば、錫也からの申し出を渋るイコールわたしが意地を張っているだけになってしまうではないか。なんて巧妙。なんてクレバー。それに、なんとなくだけれど錫也はわたしがほんとうはそうやってキスをして欲しいという事も分かっている。だから錫也はこんなにも、いたずらな笑顔でわたしを見続けているのだ。
「しょうがないな、錫也は」
でも一回だけだよ、と約束を結ぼうとしたら、少しだけ開いたわたしの口に錫也の唇が重なった。突然の事に、空間を漂っていたわたしの手が固まって、少し経ってから足の上に落ちる。驚きで目さえも閉じられず、ぼんやりとした思考でわたしは目の前にいる錫也を見つめる。口にするなんて言ってないじゃない。なによりも1番近くに彼の顔がある事を理解しながら頭の中で憎まれ口を叩いて、わたしはやっぱり実感するのだ。ああ、全く、大好きだ。
(//090626)