薄い絹越しに、あいつがいる。はっきりと見えるわけではないけれど、そこから聞こえてくるシーツの擦れる音が、あいつの存在を際立たせた。きっと、その音がなければ、俺は彼女がいなくなってしまったのではないかと不安と焦りでカーテンを開けてしまっていただろう。あいつはいつも消えそうで、いつの間にか、失くなってしまいそうだから。(もし、これを理由にカーテンを開けば、彼女は恥ずかしそうに頬を染めながら俺を変態だと呼ぶだろうか)「…」確認するように俺はあいつの名前を呼んだ。今のあいつからは、返事が返ってくるかどうかが分からなかったから、少しだけ胸が張り詰めて、緊張が走る。それはまるで、弓を放つ前の一瞬に似ていると思った。履きなれた制服のズボンの上で拳を握り締めると、短い返事が少し間をあけた後に返ってきて、さながら俺は操り人形の糸が切れてしまったかのように肩を下ろした。

「なんというか、その、…大丈夫か?」

自分で言っておきながら、なんと気の利かない言葉なのだろうと思った。もう少し、言い方というものががあるだろう。山ほどに、優しくて暖かい言葉があるだろう。なのに、それを考えつかない自分が悔しくて仕方ない。頭の中では流星群のようにそれがたくさん降りかかっているのに、どうして、にはうまく伝えられないのだ。それが不思議でしょうがない今はまだ、に対して簡単に言葉を生み出す事は出来ないのだろうなと俺はひそかに気づいていた。

「大丈夫、ありがとう。ほんと、帰り道で倒れるなんてね…荷物増やしちゃってごめん」
「荷物?」
「買い物袋と、わたし。宮地がおぶってくれたんでしょ?」

確認するようには問い掛けた。「あ、ああ、まあ…」少し前まで、俺とは部活の買出しのため、近くのスーパーまで行って、肩を並べて帰り道を歩いていたその時、跳ねるように会話をしていたの声が突然途切れたかと思うと瞬間、あいつはがくりと膝をついて倒れたのだ。俺ばかりに荷物は持たせられないと頑固として言い張ったせいで、が手に持っていたお菓子の入った袋が地面を転がっていたが、俺がそれに気をかける暇は無かった。を抱きかかえ、名前を呼ぶと返事は無かったが、薄く息をしているのが分かって、俺は胸をなでおろす。こういう事は初めてではない。どうやらいわく、これは貧血、というものらしい。俺はその症状に対して知識が浅かったため、初めてのそういう場面に立ち会った時は、どうしてかもうこいつの笑顔が見れないのではないのかと思った。だから、これは慌てて処置をしなければいけないものでもない事は知っている。けれど「…少し、我慢してくれ」落ち着いて余裕でいられるはずもない俺は、転がっている荷物を拾い、を背負って学園を目指した。自然と早足になるのは、不思議な事ではなかった。

そのまま保健室に向かうとやはりそこには誰もおらず、とりあえず俺はをベットで横にさせて、ちょうど近くに手ごろなパイプ椅子があったのでしばらくは隣に座っていたのだが、じっと寝顔を見ていると、何をしたわけでもないのにいけない事をしてしまった気がしてカーテンを閉めたところで、は目を覚ました、のだと思う。

そう言われれば、確かにそうだ。俺はをおぶってここまで戻ってきたわけだが、格別、の体重が耐え切れないようなものではなかったし、むしろそれよりも、おぶっている時にの顔が真横にあった事と、柔らかい感触が背中に当たっていた事を考えると、俺の方がに謝らなければいけないのではないかと思う。もちろん妙な所は触っていないし何もしていないが、今俺がそれを弁解すればいらぬ誤解を生みそうなので何も伝えない事にした。

そうして、沈黙。の存在を確かめる音さえ聞こえなくなった今では、ここは学園から切り離された空間のようだった。また、不安が俺を訪れるのではないかと思い始めていると「ごめんね」あいつにしてはか細い声が、カーテンの向こうから聞こえた。

「…なんだか、宮地には迷惑ばっかかけてるね」
「む…、別に迷惑なんかじゃない」
「…そっか」

本心から言った言葉をあいつがどう受け取ったかは分からないが、今度は「ありがとう」と返ってきて、それが心なしか嬉しそうな声だったのできちんと伝わったのではないかと思った。
ここからは見えないが、確かカーテンの向こうに備え付けてあった窓から、野球部の駆け声が聞こえる。それを聞いて、ここが星月学園だという事を忘れていたかのように、はっとした。そういえば、が倒れてから真っ先に保健室へ向かったので、帰ってきてここにいる事を、部活の皆に伝えられていない。後ろを振り返って壁時計を見ると、短い針が6を指していた。俺一人ならともかく、付き添っていたのはだ。帰りが遅くなると、部長が心配してまた胃を痛めてしまうだろう。とにかく、連絡をしなければいけない。こういう時は携帯だとズボンのポケットを探ってから、部活中だったため更衣室にしまってある事を思い出す。どうするべきかと考え込んでいると、カーテンの向こうから何も音が聞こえなくなった事に気づいて、俺の心臓からは冷水があふれ出て、ひやりとする。「、…そこにいるのか」いなくなるはずなんてない。そんな事は分かっているのに俺はそう聞かずにはいられなかった。この間、ふとした事で転んでしまったに何度も大丈夫かと聞いていたら梓に「宮地先輩は心配性なんですよ」と言われたが、断じてそうではない。きっと、俺が心配になるのはこいつに関してだけで、それ以外では何も心を右往左往に走らせる事は無いのだ。
窓からふんわりと光が射したせいだろうか、薄くではあるが、カーテンにの影を映し出す。目の前にシルエットが浮き出るように現れて、俺はどうしてかどきりとした。

「…いるよ。いるから、だからね」

はその言葉の続きは言わなかったが、まるでどこにもいかないでと思っているようだったし、安心して部活に戻ってくれと願っているようにも感じた。俺は立ち上がると(使い古したパイプ椅子がぎしりと音を立てた)そのままカーテンの隣を通って、窓へと向かう。保健室にあるカーテンはベットを囲むようにしてかけられる物だったが、視界を遮れれば良いだろうと思った俺はその一面しか使用していなかったから、のいる右側をなるべく見ないようにして、窓の前で立ち止まる。それは思っていたよりも意外と小さなものだったが、目的を果たすには十分だ。窓を開けてそこから顔を出すと案の定、野球部の団体が、少しはなれたところに塊で見える。「すまない」周りの雑音や、距離もあったせいで、あまりよく聞こえなかったようだが、俺が何かを言っている事は伝わったらしい。野球部の一人がこっちに近づいてくる。走ってきたそいつに、俺は腹から声を出すようにして言った。「すまないが、弓道部の部長をここに呼んでくれないか」俺の様子に状況を想像したのか予測できたのかは分からないが、その野球部員は俺の言葉を聴いて、軽く頷くと踵を返した。向かうは、弓道部の部室である道場だろう。あの部長の事だ、保健室で誰かが呼んでいると野球部員から聞いてすぐに、に何かがあったという事くらい分かるのだろう。
俺は、窓を閉めて、振り返る。は俺と目が合うと、申し訳なさそうにゆっくり視線を落とした。それはの膝の上で、寂しいとでもいうように、二つ重ねられている白い手に向けられていた。「…」彼女はぴくりと肩を動かした。

「…俺はどこにもいかない、だから安心しろ」

そんな俺の言葉に笑顔を浮かべたを見ると息が苦しくなって胸がちりちりと焦げて心臓が壊れたみたいに踊ってああこのままを抱きしめてしまいたい。落ち着きたくて音がしそうなほどに深呼吸をしたら保健室の扉が開くと共に心配そうな部長の声が聞こえて、ああよかったとどうしてか俺は安堵するのだ。

だからはやく
忘れて
しまえばいいのに

(//090725)