それでも世界は回る


世界が回った、と思った。僕はそうに違いないと思ったのに、世界が回る事なんて事はなくて、でもそれは僕の視界が一回転したわけでもなくて、むしろ暗幕が下ろされたのは、僕の隣にいた先輩のほうだった。先輩の長い髪が地面を這うように流れている。僕はこの状態をよく理解できなくて、ただそれをじっと見つめて「…先輩?」不安を消し去りたくて返事をして欲しくていつもの笑顔を見せて欲しくて、名前を呼ぶ。けれど、先輩は倒れたままぴくりともしない。僕と先輩の間を埋めるようにそこを風が通って、それが先輩の髪を浚った。どうして、僕の願いは届かないんだろう。僕の放った矢は、気持ちの良い音を立てて素早く的を射る事ができるのに、僕の願いは先輩に届かない。さっきまで、僕と先輩は他愛の無い会話を楽しんでいたはずだったのに、どうしてこうなったんだろう。なにがこうしてしまったんだろう。僕はやっとの事で手を塞いでいた荷物を地面に置いて「先輩、」恐る恐る先輩に手を伸ばす。先輩の顔にかかっていた長い髪をよけるけれど、先輩は身じろぎもしない。少しも動かない先輩を見て、僕の頭には最悪の結果ばかりがよぎる。この人は、息をしているのだろうか。先輩は、生きているのだろうか。髪に置いていた手を先輩の口元に移動させると、僅かながら息をしている事が感じられて、僕は胸をなでおろす。まだ、大丈夫だ。まだ、終わっちゃいない。
先輩の無事を確認した僕は少々落ち着いてきて、とりあえず先輩を学園まで連れていかなきゃならない事に気づいた。こういうのに詳しくない僕じゃ病名は分からないから星月先生頼みになるが、仕方が無い。あの保険医が砦である保健室にいるかどうかは分からないが、とりあえずは先輩を横にさせる事が最善策だから向かう場所は変わらない。荷物を腕にかけて、先輩を背負う。身長差があまり無い事もあり、最初は少しふらついたが「え、ちょっと…先輩、軽すぎませんか」本当にそれは最初だけで、後は問題なく歩けた。それくらい、先輩が軽かったのだ。軽すぎて、拍子抜けしてしまったほどだった。この間、ケーキを食べている宮地先輩の隣で、太るからあんなに食べられないと残念そうにしていた先輩に弁解をするべきだったなと後悔する。そんな事を思い出していると、背中にいる先輩から声が漏れた。(あ、)甘いようなその声に、自然と胸がどきりを音を立てる。「…今だけは、僕だけの先輩でいてくれるんですね」なんていつまでも眠ったままの先輩に少しだけ意地悪をこぼす。もし今、先輩が起きていたとして、この言葉を聞いていたとしても、さらりと流されてしまうのだろう。受け止められる事は無く、右から左へ流れるように、それは消えていく。

「このまま、攫っちゃおうかな」
そうすれば先輩はずっと僕を見てくれるし僕を頼ってくれるし僕だけの先輩でいてくれる。きっと先輩はすぐに目を覚ますだろうし、だから。「ねえ、先輩。それでも、いいですか?」もちろん、先輩からは返事が無い。唯一、背中に伝わる鼓動の音と体温が、先輩からの返事のようで、そして先輩の存在をより際立たせただけだった。そうして僕は安心する。つまりは、返事なんてかえってくるわけがないから僕は先輩にそう問いかけたのだ。返事がかえってくるのが怖いから、僕は眠っている先輩に問いかけたのだ。僕は自嘲気味に笑う。なんて卑怯で臆病なんだ。僕は本当は先輩を攫ってしまいたくて仕方が無いくせに、そうしようとしない。星月学園へと向かう足は止まろうとしない。(ああもう)結局、僕はこの人が一番大事で仕方が無いんだ。
(//090814)