「そこ行く見知らぬあなた!」 この声を音階で表すとしたら、ソの音だろうか。そんなことを思った。一直線に続く廊下で歩みを進めていた足を止めて、僕は振り返る。いつもより少しだけ上ずった声をあげて不特定の誰かを呼んださんが、そこにいた。彼女は「見知らぬあなた」と言っただけで僕の名前を呼んではいないのに、僕はどうしてか彼女が古泉一樹のことを呼び止めたようにしか思えなかったのだ。たぶんここに彼が一緒いたとすれば、自惚れるなよ古泉、とでも悪態を吐かれるかもしれない。 どうしてか、たくさんの生徒が行き交う廊下でさんの声に振り返ったのは僕だけだったようだ。まださんが誰を呼んだのかは分からないままだったので、僕はそのままじっと彼女を待った。彼女は俯いたまま、しっかりとした足取りでこっちに向かってくる。両手を後ろに回しているその仕草は、まるで何かを隠しているように見えた。さんは僕の前ですっと止まって、やはりさっきの呼びかけは古泉一樹に対してのものだったのだなと分かった。(どうやら自惚れではなかったようです)おはようございます、さん。とりあえず挨拶を、と口を開こうとしたら俯いていたさんが突然顔をあげた。きっとした決意の色を浮かべたり、ゆらゆら揺らいだりしている瞳を見た僕はどうしてか、さっき何を告げようとしていたのかをすっかり忘れてしまう。消えてしまった言葉を飲み込んでいると「突然だけど!」さんの瞳は強い色に定まった。 「わっわたし今日コンタクト忘れちゃって前が全然見えないの!で、誰かは存じませんけどこれあげる!」 さんは僕が何かを喋る前に素早く背後に隠していたものを僕に押し付け、踵を返して走り去っていった。一人置いていかれた僕はぽかんとして、彼女が消えていった方を見つめる。押し付けられたものをよく見てみると、それはリボン等で可愛らしく包装されていた。まるで誕生日プレゼントのようだ。(…)(そういえば)はっとした僕は急いで携帯を取り出してディスプレイの時刻表示を見る。そこには見覚えのある数字の羅列、つまりは僕の誕生日の日付が表示されていた。所々不器用に折られているこのピンク色の包装紙でラッピングされたものは、さんが僕に宛てた誕生日プレゼント。それに、確か彼女の視力はそこそこ良かったはずだ。少し前に、視力だけはいいのよとさんが話していたのを覚えている。まあ、さんは意地っ張りで素直じゃない。だから彼女は、何かと理由が必要なのだ。以前僕が用事で遅くなったときに、約束もしていなかったのに校門で待ってくれていた時だってそうだ。どうして待っていてくれたのかと聞くと、別に古泉くんを待っていたりなんかしていない、の一点張りだった。じゃあ僕が校門に来たときに浮かべたあの笑顔はなんだったのか。疑問が残ったままだったのでしつこく聞くとさんは「さっきまで委員会で今帰ろうと思ってたとこだったの!」と言った。その言葉に僕は笑みを浮かべる。「じゃあ、一緒に帰りましょうか。方向も同じことですし」僕は、今日委員会が開かれていないことは知っていた。 おそらくさんは僕に突っ込まれない理由を一生懸命考えて、僕にこれを渡してくれたのだと思う。昼休みの時間がまだあることを確認してから、僕はSOS団室へ向かって包装を開けてみる。僕の好きなアナログボードゲームと、小さいちいさい可愛らしいメッセージカードが入っていた。「ハッピーバースデイ!これで一人で練習して、せめてわたしにくらい勝てるようになってね!」丁寧に書かれたその字を見て、心が熱くなっていった。とてつもなく嬉しくなって、口元が緩むのが自分でもわかるくらいだ。ああ、まったく困ったな。彼女は僕をこれ以上苦しくさせてどうするつもりなのだろう。淡い淡い綺麗なピンク色をしたメッセージカードに優しく口付けて、僕は大事にそれをしまった。 |