それはまるで壁のようだった。前を向いても後ろを向いても、顔も名前も知らない男たちが気持ち悪いほどの笑顔をわたしに見せている。わたしからすれば、むしろ見せられていると言った方が正しい。円のようにぐるりと形成されたその中心は、決して休まる空間ではなかった。男たちは決まり文句のような甘い言葉を並べるだけ並べて、うやうやしく頭を下げると「ワルツを一曲、ご一緒してはくれませんか」白い手袋に包まれた手を差し出してくる。この手にどれだけの思念と欲望が詰められているのだろうと思ったら、嫌気が差す。繰り返される下らない馴れ合いに飽きたわたしは、いつも通りに笑顔だけを返し、ドレスを翻して男たちを掻き分けた。逃げようとするわたしに後ろから様々な声が耳に入ったが、歩く早さを緩めることは無かった。
かつん。かつん。履きなれないヒールのある靴が、時々リズムを外しながら音楽を奏でていた。おそらくさっきまでいたホールでは、こんな小さな音など人の声でかき消されてしまっていただろう。さっきとは打って変わって誰もいない長い廊下を通って、わたしは全面が窓になっているドアを開いた。すこしだけ冷たい夜風が髪をさらう。もうあの場所に戻る気は無かったから、髪が崩れてしまったとしても構わなかった。誰もいないことを確認するように辺りを見渡してから、小さなバルコニーに足を踏み入れる。なんとなく頭の上に広がる夜空がいつもより近くにある気がして、目の前にある手すりを持って少し乗り出して下を見てみると、ここが意外な高さにあるということを知った。わたしは高所恐怖症というわけでもないから、もちろんそれに気づいたからといって、可愛いらしく声をあげるわけも、遠くに見える地面との距離感に恐怖を感じるわけでもなかった。
そうしていると、屋敷の中庭にある噴水の近くで、何かが動いているのが見えた。あれは、人影だろうか。噴水の周りはライトで照らされているが、そこまで明るいものではないこともあり、よく見えない。じっと見つめたり、目を細めたりしてみるが、影が一つある事しか分からなかった。はっきり言ってそこに誰が立っていようがどうでもいいし、ここまでくるとすっきりしない事もあった、けれど何より、もぞもぞと動くそれは、真っ暗闇で立ち尽くすわたしに、こっちにおいでとやさしく言っているようだった。もっと身を乗り出してみたら見えるんじゃないか、と、身体を前のめりにした途端、まるで地面に引き寄せられているかのようにわたしはバランスを崩した。頭や耳にがんがんと警報みたいなものが鳴り響く。耳鳴りは嫌いだとかそんな事を考えている暇はなかった。一瞬で恐怖が身体中を駆け巡って、落ちる、と思った瞬間「、!」ひんやりと冷たい手がわたしの腕を掴んだ。世界が一転したような感覚の後、目の前に広がったのはさっきまで見ていたバルコニーの同じ風景と、さっきまでいなかった顔が一つ。白に近い銀色の髪は、月色を浴びているようにほんのり光を纏っていた。いつもいやらしく歪んでいる口は、なぜか堅く結ばれている。「…ブレ…イク?」あまり見たことの無い、真面目なような怒っているようなそんな表情をぼんやり見ていると、大きなため息を「…、はああああ」吐かれた。
「全く、何をやっているんですか君は」
それとも、落ちたかったんですか?返す言葉もなかった。まだ、世界が回っているような感覚が残っていて、ぐらぐらする。「…ごめん、なさい」呆然としたまま座り込んでいるわたしが、ブレイクの後ろで窓に映りこんでいるのが見えた。女の子座りをしているわたしとは違い、両足を伸ばして座っているブレイクを見て、パーティーの時でも正装はしないんだな、とぼんやり思った。きっと似合うだろうから、着ればいいのに。ブレイクはわたしからの視線を受け取ると、立ち上がった。そのままわたしの横を通り過ぎると、手すりに両肘を預けながらもたれ掛かり、口端を吊り上げてこっちを見た。もうブレイクには、さっきまでの表情は浮かんでいない。
「それにしても、どうしてこんな所にいるんです。ホールでえらくモテモテだったでしょうに」
「あれはべつに、…ブレイクだって分かってるでしょ」
ホールでわたしを取り巻いていた彼らの目的は、わたしの家柄の地位や権力が欲しいだけというなんともよくある話で、見た目や年齢さえ違うけれど、心の底で考えている目論見は皆同じだ。馬鹿らしいことだけど、それが発展のためにはとても大事な事だって、わかってる。けれどせっかくパーティが開かれているのに、華やかなのは見た目だけで、中身がなにもないっていうのはとても勿体無いとも思うわけで。「それに、踊りたくもなかったし」かすかに、軽快な音楽が響いていることに気付いた。閉められたドアの向こうから振動が伝わっているので、くぐもったようなものだったが、それは聞きなれているわたしの好きな曲目だった。
「じゃあ誰となら、踊りたかったんです?」
「え」
誰と、って。わたしの口から独り言のように紡がれたその言葉は多分、風に乗って飛んでいった。だからおそらく、目の前でにやにや笑うブレイクには届いていないのだと思う。誰と踊りたかったんですか。そんなこと、わたしに聞かれても困る。いやらしく口を弓みたいに吊り上げて、どうしてそんな事を聞くんだ、この男は。まるで、わたしが誰とワルツを踊りたいのか分かっているような、言い草じゃないか。「ああ、そういえば君」ブレイクがさっきの質問に返答しかねているわたしを見据えてニヤリと笑うと、いかにも何かを思い出したように不自然にわたしの名前を呼んで「おいしそうなデザートはあったかい?」そう問いかけた。ケーキにプディングにスコーン。考え込まなくても、さっき見たばかりのいかにも高級そうなたくさんのデザートが頭に浮かんできた。「…?まあ、たくさんあったけど」紅茶に角砂糖を5つ入れるわたしと肩を並べるくらい、甘いものが好きなブレイクも満足できる程の様々な国のお菓子が並べられていたように思う。けれど、それがどうしたというのだろう。甘ったるそうなお菓子を自分で想像したのか「それはそれは」ブレイクはまるで、生クリームと苺がたっぷり乗ったミルフィーユケーキを目の前に出された時のように嬉しそうに笑った。(そうは言ってもブレイクはいつもニヤニヤとした笑みを浮かべているので、さっきまでの表情と大きな変化は無い)
「ワタシは今からデザートを食べに、ホールへ向かいます」
手すりにもたれ掛かっていた身体を起こし、自分の足だけで立ったブレイクは、わたしの目の前まで来た。わたしが銀色に輝くブレスレットのついた手を伸ばせば、届いてしまうような距離。見上げると、風でブレイクのマントが揺らついた。「それに、」雲の隙間から月が覗いて、ピンポイントで二人を照らし出した。さしずめ、わたし達は世界にとって、舞台の上でライトを当てられているロミオとジュリエットなんかじゃなくて、村人Aとか村人Bみたいな配役だけれど。それでもいいじゃないか。傍役には傍役にしか出来ない自由な出来事がきっとある。
「まだワルツが演奏されているなら、踊るのも悪くないんじゃないかと思っています」
手袋はしていないけれど真っ白な手が、わたしの前に差し出される。
「さあ、どうします?」
月の光を背に、ブレイクが微笑んだ。彼の伸ばした長くて綺麗な手は、まだ宙に浮いている。その指先がわたしを待っている事は、理解していた。もしわたしがブレイクの手をとっても世界はなんら変わらないけれど、わたしの視界はぐっと狭くなるだろう。その反面でわたしの世界は広がるんじゃないかと思う。「(ああなんてずるい)」きっとこのまま放っておけばブレイクは月の光で砂のようにさらさらと溶けて風に浚われて消えてしまう。あるはずがないのにそんな確信がわたしの中にあって、だから早くその手をとってしまえと急かすように告げるのだ。
例えるならこれは磁石のような関係
わたしがマイナスならブレイクはプラスなんだろうなと、見かけよりも温かい彼の手を握って思った。
(//090504)