小さいころあこがれたお菓子の家は、空に浮かぶ雲のようにやさしい生クリームとか、酸っぱくて甘い小悪魔な苺とか、だいすきな甘いものであふれていた。そして、今わたしの目の前にあるこのケーキには、そのすべてが詰まっていた。触れることを躊躇ってしまいそうなくらいの美しさをかもし出し、それでいて可愛らしい。まるで、初恋の男性にめぐり合ったかのような気持ちを覚える。ケーキの上にのった、摘み取られたばかりの苺が今にも零れ落ちそうで、わたしは慌ててフォークを持った手をのばす。苺にのっている透明なジェルと、雪のように真っ白な生クリームがフォークに付いて、我慢できなくなったわたしは、甘そうなそれをゆっくり口へと運ぶ。ふわり。思わず、口の中で広がった感覚に酔いしれてしまう。
「…幸せそうですネェ、君」
恨めしそうな声が、白いクロスのかかった丸いテーブルを挟んでわたしの向かいに座る男から聞こえてきた。いとおしいケーキから視線を外して彼を見ると、さっきの声音にぴったりな、不機嫌まるだしの表情を浮かべていた。どうやらいつもの余裕そうな笑みは、どこかに忘れてきてしまったらしい。
「ふふ、これは勝利の勲章よ」
得意げにフォークで小さく円を描くようにしてから、ケーキが崩れてしまわないよう細心の注意を払いながらフォークに苺を刺した。そうしてこれ見よがしに苺を口に放り込む。それを見ていたブレイクが「ああぁ」小さく呻いた。そして、悔しそうに憎まれ口をたたく。「勲章も何も、じゃんけんで勝っただけでしょ」何とでも言うがいい。真剣での決闘であれチェスでの対戦であれ、たった一つしか無いケーキを賭けて、勝ったのはわたしだ。その対戦方法が今日はじゃんけんだっただけの話。いつもはカードでもボードゲームでも負けてばかりで、満足そうにケーキを平らげるブレイクを見続けているわたしからすれば、やっと勝ち取った勝利だ。次にこの優越感が味わえるかは分からない。それに、彼で遊べる時間は滅多とない。だからこそ、見せ付けて、味わって、楽しむのだ。思う存分悔しい気持ちを味わうがいいわブレイク!
「それにしても、やっぱり公爵家御用達よね。ケーキの質が断然に違う。…これいくらくらいするのかしら」
付け加えた独り言を聞きとめてしまったブレイクはピエロのように、にたにたと笑った。「貧乏性がにじみ出てますヨー」「う、うるさいわね!」公爵育ちの人間ではないわたしは、未だにこういった貴族の華やかな生活には慣れていない。捨て切れていない貧乏時代の性分がうっかり出てしまい、気に入らないことにブレイクがそれを聞き逃さないため、いつもからかわれてしまうのだ。(…くそう)これでは、いつもと同じペースになってしまうではないか。これではいけない。目の前にある最大の武器、いくらするのか分からない絶品のケーキを視界に入れて、わたしは気持ちを落ち着かせた。
「それにしても本当においしそうだ。一口もらっても?」
「だめに決まってるでしょう!」
それに、フォークが一つしかないのだから、あげれるわけなんてないだろう。(…)(べ、べつに間接キスだからとかそういうのを気にしてるわけじゃなくて、ほら)(いつもブレイクだってわたしにくれないし、ね!)そんなわたしの葛藤を知ってか知らずか、突然、ブレイクは兎のように真っ赤な瞳をわたしにさだめた。その視線は、さっきの憎らしいようなものでもなくて、いつもの余裕そうなものでもない。見たことの無いそれに、自然と胸が高鳴った。
「じゃあ、ワタシはこっちをもらうことにします」
いやみったらしくにっこりとした表情を作ったブレイクに、わたしは訳も分からずに焦る。わたしとブレイクとの間には、小さな丸いテーブルが置かれているだけ。椅子から腰を浮かしたブレイクの手がわたしの肩に置かれたことで、手を伸ばしてしまえば届く距離だったことに今更ながら気づく。こっちってなんのことだ、とか頭の中は疑問ばかりだったけど、ブレイクはそんなことを考える余裕なんて与えてくれるはずもなかった。逃げるように俯いて、少しの汚れでも目立ちそうなくらい真っ白なテーブルクロスを見ていたい。けれどそれは願望だけに終わり、わたしは結局視線から逃げられずにいた。どれくらいの時間が経ったのかは分からなかったけれど、ブレイクが一度だけまばたきをしたのを見て、時間なんてほとんど過ぎていないのだなと思った。そうしていると、ブレイクがわたしの唇のすぐ横の、頬を、這うようにして舐めた。背筋に、ぞわりと気持ちの悪い電撃のようなものが走る。なにやってんだこいつ、という驚きと恥ずかしさに混じった気持ちが溢れて、目をつぶると同時に、フォークを持った手を握り締めた。舌が離れると安心して、わたしは全身の力を緩める。ゆっくり目を開けると、いつの間にか俯いていたのか、視界には真っ白なテーブルクロスが映った。
「いただきまあ〜す」
なにを。テーブルの上には、食べるものなんて一つしかなかったということを思い出したわたしは、頭の中で自然と一番考えたくない結末にたどりつく。慌てて顔を上げて、わたしの愛しいそれが無事であることを祈ったが、残念なことに目の前にいる男が嬉しそうにケーキの載った皿を手にとっていた。さっきまで持っていたはずのフォークはいつの間にか奴の手の中にあって、それはわたしが独り占めしていたケーキの中心を指している。
「…!?こ、こらブレイク!!なんで、いつの間にフォーク、てかケーキ!返しなさいよ!」
「もう遅いですヨ〜」
立ち上がって取り上げようとしたわたしを避けるようにして、ブレイクは半分以上残っていたケーキを一口で平らげた。「あああああ!!!」シャロンが慌てて駆け寄ってくるんじゃないかと思えるくらいの、わたしの悲惨な叫びが静かなバルコニーに響いた。ブレイクの胸倉を掴んでやりたかったが、生憎わたしは女で、身長も力も足りない。そのせいで、服を握り締めたり胸を叩くことしか出来なくて、余計に悔しくなった。
「油断するなんて、ほんとうに甘いですネ」
「だってあんな、!…」
ほんの少し前に味わったあの感覚がまた、ぶり返してくる。(今わたしの目の前にいるこいつがわたしの頬を舐めて、)想像するだけで恥ずかしさに耐え切れず、自然と身体が熱くなっていた。急に黙り込んだわたしをいぶかしんだのか、ブレイクがわたしの顔を覗きこんで「…おや?」見られた、と思ったときにはもう遅かった。ブレイクは嬉しそうにというよりも、新しい玩具を見つけた子どものような笑みを浮かべて、わたしを見る。たぶん、あの赤い目から視線をそらせなかった時点でわたしの負けは決まっていた気がした。せめてもの反抗で、わたしは俯いてブレイクの顔を見ない。
「もしかして、ドキっとしちゃいました?」
「してない!」
「顔真っ赤ですヨ」
「…真っ赤じゃない!」
「……おいしかったですヨ?君のほっぺた」
「!?」
「に付いた生クリーム」
今ここでこいつを殺しても誰もわたしを咎めないんじゃないかと思った。
心臓がパンク
どきどきしすぎてる!
(//090411)