「勉強、大丈夫そう?」
「あ、ありがとうございます。…大丈夫、ではないかもしれません」


さんが持ってきてくれたコーヒーにお礼を言いながら、不安です、と言葉を濁す。ゆらゆらと湯気が楽しそうに揺れている所を見ると、このコーヒーは今さっき注いできてくれたばかりのものなのだろう。

ランスロット以外は何も目ぼしいもののない特派のラボラトリーでは、その湯気だけが天井に近づいて、空気に溶けていく。カップに触れると、思ったよりも熱くて反射的に、あつ、と発した僕を見てさんは気をつけてね、と微笑んだ。僕とさんが居る場所はランスロットと天井に一番近い、ラボの中でも高所の所だ。もしこんな高さからカップを落としてしまえば大変なことになるだろう。


「教えてあげようか?」
「え、いいんですか?」
「私これでも特派で一番若いのよ?覚えてる範囲なら教えるわ」


スザク君をカウントしないでだけどね、と付け加えながら、さんは机に広げてあった教科書をまじまじと見た。なんとか分かりそう。そう言いながら彼女は微笑んで、隣に座った。一瞬、ふわり、と石鹸のようなにおいがした。香水を好んでつけるようなタイプではなさそうなので、シャンプーのにおいだろうかと勝手に推測する。それにしてもいい匂いだ。さんらしい、素朴な。


「あ、スザク君、ここ違う」
「え?何処ですか?」


僕が勝手な想像で頭を働かせているうちに、もうさんはノートに書いてあった数式を確認したらしい。うーんとね、と彼女は僕が握っているシャープペンシルに触れた。自然と、僕の手が彼女の手に触れる。

優しく触れてくる指に、温度に、思わず勘違いをしそうになる。違う、違うんだ、と頭にあった邪心を振りはらい、教科書に向き直ったときくーん、と遠くでロイドさんが彼女を呼ぶ声が聞こえた。下を覗くと、書類の山で埋もれそうなパソコンの近くで、薄紫色の髪がちらりと見えた。ロイドさんが彼女を呼びつける理由は、コーヒーを入れてくれとかデータはどこにあるかとか、いえば大した用事ではない。呼ばれた当の本人は困ったな、と眉を寄せて苦笑している。どうして、いつも。ふつふつと湧き上がってくる感情を押し潰して、ぱっと笑顔を取り繕う。


「行って下さい、僕は一人でも出来ますから」
「……ごめんね?後で教えるから」


カン、カン、と階段を下りてさんは呼びつけた上司の元へ向かう。

この人はいつもそうだ。いっそ、全て向こうを優先してくれれば、いっそ、入る余地が無いくらいに接してくれれば。諦める事だって忘れる事だって出来るのに。僕の手を離して、彼に向かう彼女を、ほんとうは引き止めたいのに。行かないでと胸の中に閉じ込めたいのに。

でもそんなこと、僕には出来やしないのだ。目の前には彼女が残した温度と、わけの分からない数字が並んでいる。今日もまた捨てられていく本音に、笑顔を被せた。


きみの「すき」はあのひとのもの
(//20080205)