浪費されていく


「……あ、土浦」

の手元にある楽譜を覗き込んで、俺はその楽曲名をスラスラと読んだ。自分で近づいておいてなんだが、普段よりも近いその距離に、緊張が高まる。何も言わずに小さく頷いたの髪が揺れて、甘い香りが漂う。ケーキ屋の前を通った時に、一瞬だけ香る菓子の匂いのような、そんな匂いだった。ポケットにキャンディーか何かが入っているのだろうか。

「うん。コンクール近いし、ちゃんと練習しないとさ」

ま、今回も楽しみにしてるぜ。にっと微笑んで、を見る。今更だが身長が頭一つ分ほど違う彼女は、俺から見ればとても小さくて、ちっぽけだ。きっとにそれを言えば、土浦がでかすぎるんだ、と不機嫌そうに文句の一つを言ってきそうだが。そんな事を考えていると、俺を見ては眉を寄せていた。困り顔にも見えるが、いったい何を企んでいるんだ、と疑う顔のようにも見えて、俺は苦笑いを浮かべる。

好きなのは彼女の音だけではないけれど、の音が好きだと告げる。くしゃり、との髪を少し掴んで、撫でるように頭を叩いた。この身長差だと、の頭の上には手を載せやすい。だから俺はよく彼女の頭をよく触る。それをがどう思っているのかは分からないが、反応を見る限りでは、おそらく嫌、ではないと思う。それに、手をかざすと、びくりと少しだけ肩を動かし、頭を撫でると、頬を桃色に染めるはとてもかわいらしくて、やめられないのだ。この2コンボって所がとくに強烈すぎる。いい加減にしないと怒られるか、との頭から手を離して、お互い頑張ろうぜ、とエールを送る。

「土浦のピアノも期待してるね」

が俺の目の前で微笑む。まるで彼女の周りだけに花が咲いたようにきらめいて、俺の思考が揺らいだ。学院の廊下には似つかわない花が、咲いている。花を世話したことなんて、夏休みの宿題――あのときのアサガオは枯らしてしまった――くらいで、今までそれに触れ合うことなんてなかったし、花屋なんて見かけるだけで行った回数も数えるほどもだった。もちろん、特別綺麗だなんて思ったこともなかった。なのに、どうしてこんなにも綺麗な花が、こんなところに咲いているのだろう。思わず摘んで、抱きしめてしまいたい衝動にかられたが、ここは廊下だ。周りを行き交う奴らも多い。そんなことはできない、と自分の心を落ち着かせていると、ねえ、土浦。とが突然俺の名前を呼んだ。

「好きになったら、ごめんね」

すこしだけ、困ったような表情を浮かべては笑った。その言葉に思わず全身がフリーズする。ちょっと待て。もしかして俺は今までごめんという意味を思い違えていただろうか、と必死に頭の中でその”ごめん”を考えるが、謝罪以外の意味では見当たらない。ごめん。とさっきまで頭の中をめぐっていたその言葉を口に出して、を見る。は俺を見ていた。ビー玉のような瞳がそのまま俺を映す。なんていうか、上手くいえないが、

「俺はお前の事好きだから、謝らなくていいと思うぞ」

またの頬が桜色、いや真っ赤に染まった。おい、2コンボじゃなくても強烈じゃないか。心の中でに理不尽な文句を言いながら、俺は目の前のの頭の上に手をのせて、軽く髪に触れた。そのとき、彼女の胸ポケットに可愛らしく包装された菓子らしきものが目に入る。やっぱりな、と少しだけ撫でる力を強めて俺は微笑んだ。


(//20080127)