そういう経緯で、
俺は君と恋を始めるに至った


重い。身体が重いのか、頭が重いのか、布団が重いのか、何がそう感じさせているのかも分からないくらいに、おもい。まるで見えない何かに押さえつけられているかのようだ。もしかして俺は空気にでも圧力をかけられているのか。俺はとりあえず、この重力は空気のせいだと決め付けて、ゆっくりとその空気に負けないように身体を起こす。ベッドから足を下ろして立ち上がると、頭に苦しさと痛みが走った。まるで、左右から押さえつけられているように感じて、うっとうしくなる。いい加減にしてくれないか、空気。

重々しい身体を引きずるように歩いて、扉の近くに行く。そのとき、向こう側からお湯を沸かす音や、何かを焼いているような音が聞こえてきた。母親、か。いつもなら食欲をくすぐるのだろうが、今はこの重さだけで精一杯だ。久しぶりに作ってくれた朝食だが、存分には味わえないだろう。もたれかかる様に扉のノブを握って、扉を開いた。それと同時に、卵を焼いたような匂いがした。良い匂いだ。といつもの様に朝食の並ぶ席に座ろうと思ったとき、俺は何故かそこにいるはずの無い彼女を見た。

もしかして、これはまだ夢か。そんな馬鹿らしいことを考えたが、まだ続いているこの重苦しさは、あまりにも現実じみている。苦しめられていた空気に、これが夢じゃないことを伝えられたのは何だか癪だったが、解らされた後でそんな事を言ってもしょうがない。悔しさをこめた溜め息を一つついて、彼女を見た。


「お…おはよう。蓮くん」
「おはよう。また母さんが余計な気を回したみたいだな。すまない」


彼女は。小さい頃から家も近く仲が良い、いわゆる幼馴染というやつだ。そのせいか母さんは彼女と仲がよく、たまに自分が出かけているときに俺の世話をに頼む。彼女に迷惑をかけてしまうから極力避けたいのだが、母さんは俺のいう事など聞きはしない。以前それを話せば、にこにこと笑って「いいじゃない、蓮」と流された。全く、こういう時にしかと感じるが、俺と母さんは本当に似ていない。


「い、いいんだよ!私も心配だし!さ、冷めないうちに食べて?」
「あぁ、そうさせてもらう」


並べられた朝食から湯気がゆらゆらと出ているのを見て、とりあえず俺は席に着いた。そして熱そうな、入れたてのコーヒーを手に取る。少し口に含んだ、あつい。身体が熱いせいかもしれないが、今ではどっちが熱いのかも解らない。とりあえずコーヒーをもう一口すすっていると、がこっちを見ていることに気づいた。心なしか、目が泳いでいる。特に朝食に失敗しているような部分は見当たらないし、彼女が引け目を感じるところは無いはずだ。分けが解らなかった俺は「?…どうかしたのか?」と聞くと、「え!?なっ、何でもないよ!あ、し、新聞読む!?」とは慌てて新聞を差し出してきた。余計意味が分からなかったが、とりあえず差し出された新聞を受け取った。コーヒーをまた手にとって、新聞を見る。目を引くような記事は見出しには無かったので、新聞を一枚ずつめくっていった。それにしても、あつい。今日は一段と気温が高いのだろうか。窓の外を見てみるが、日は照っていないかわりに白いものがちらついている。雪だ。雪が降っているというのに、この暑さはなんなんだ。


「れ、蓮くん。ちょっと失礼」


向かい側に座っていたが身を乗り出して、俺の額に手を当てた。ひんやりとした感触が気持ちよくてそれに浸っていたかったが、それ所じゃない。が、異様に近いのだ。こんなにも彼女と近づいたことの無かった俺は、冷えていく額と裏腹に身体の体温は上がって行く。くらくらして、痛い。きっと痛いのは空気のせいだが、くらくらするのはのせいだろう。そんな事を思いながら「…?」と名前を呼ぶと彼女の手が離れた。なんだか名残惜しい気が、する。


「蓮くん、今日はお休みよ。朝食は後でリゾット作ってあげるから、もう寝て。風邪は引き始めが肝心!」


俺に対して重力をかけていたのは空気ではなく、風邪だったのか。的外れだった。むしろ、こんな事を考えていた時点で、俺の身体はそれに侵されていたのかもしれない。椅子に座っている俺を無理やり立たせて、背中を押しながら向かうのは俺の部屋。ちょっと待て、休む?コンクールまであと1週間も日が残っていないのに、か?「、コンクールがあるから欠席は、」と今だに俺の背中を押すに伝えると「体のほうが大事でしょ!」と一喝された。


「そのコンクールに出れなくなったら元も子もないでしょ!大切なのは練習の前に体調!蓮くんが元気じゃないと良い演奏なんて出来ないよ!」


は、音楽科ではない。家こそ近かったが、ほんとうに仲がいいのはそれだけで、彼女の家は音楽にまったく関連の無い家庭だった。だから彼女に音楽の知識はまったくないし、弾けると言ってもピアノを趣味程度、というだけだ。俺と同じ学校に行きたかったらしい彼女は、星奏学園の普通科を選んだが、やはり、科が違うとカリキュラムも大幅に違ってくる。会えることも少ないし、一緒に下校したことなんて数えるほどしかない。「きっと、聞いてくれる人も心配する、から」はそう言って黙った。俺の背中を押す力も弱まっている。彼女は本心から俺を心配してくれている。それが嬉しくて、俺は自分で部屋へと足を進めた。


「…とりあえず!私が来るまで絶対ベッドから出ちゃ駄目だからね!」


そう言っては俺の部屋を出て行った。静かで寂しい空間が、もどる。「…心配」さっき彼女が言った言葉を口に出して、ぼんやりと考える。は大多数のコンクールを聞く人間が心配する、という意味で言ったように聞こえた。例えばこのコンディションでコンクールに挑んだとしても、俺に知らない人間からの心配は必要ないし、迷惑だ。俺が、ほんとうに欲しい心配は一つ。ひとつだけ。右手を高く天井に向けて伸ばして、手のひらをぎゅっと握る。心配、か。もそもそと右手を布団の中にしまって、大きく息を吐いていると、控えめに部屋がノックされた。返事をしないうちに、はドアから顔を覗かせた。彼女が持つトレイには、リゾットと、市販の風邪薬に水。そして暖かいミルクが乗せられていた。朝食を持ってきてくれたを見て、俺は横になっていた身体をおこす。


「おまたせ。ごめんね、お腹すいたでしょ?」
「いや、謝るのは俺のほうだ。せっかくの朝食を…ダメにしてしまった」
「もともと押しかけてきた私が悪いんだしさ。はい、召し上がれ」


リゾットを受け取ると、「熱いから気をつけてね」とが笑って声をかけた。まるで、子供のようだ。俺は苦笑して容器に添えられていたれんげを持った。の作ったリゾットはなんだか、懐かしい、むかし母親に作ってもらっていた味とよく似ていた。それがとても美味しくて、食欲が無かったはずなのにもかかわらず、リゾットはみるみる減っていく。トレーに載せていた食品が全部空になって、正直俺も驚いた。いつも風邪を引いたときには、何も口にしない俺が全て平らげたのだ。よっぽど味が良かったんだな。「ありがとう、美味しかった」と隣で嬉しそうに笑うに告げる。


「お粗末様。やっぱり男の子だね。大きいほうの入れ物で作ったのに」
「味が良いからだろう。どこか母さんの味に似ていた」
「本当に?良かった。今度会ったらお礼言わなくっちゃ」


どうやら、彼女は俺が知らない内に母さんから料理を習っていたらしい。だからあんなにも味付けが似ていたのか。母さんに料理を習っている時のをすぐに想像することができた。何度もなんども失敗して、そして最後には成功して。嬉しそうに料理を見るが頭に思い浮かべる。昔から変わっていないな。彼女にはいつまでも、そのままでいて欲しいと思う。それは、俺の勝手な願いだが。


「じゃあ私、洗ってくるから」


が、俺の足の上に置かれていたトレイの端を掴む。行ってしまうのか。寂しい部屋の中で、ひとり。とてつもなく孤独感に追いやられた俺は、無意識におぼんを掴む彼女の手首を掴んでいた。冷えた体温がじんわりと伝わって、まるで俺の手を溶かしていくようだ。「蓮くん?」と驚いたような声色でが俺の顔を覗く。そんな事はお構いなしに、俺は彼女の手をトレイから離し、その体温をもっと味わいたくて、それを俺の手で包み込む。ぼんやりとする頭での視線を捉えると、彼女の頬が少しだけ染まったように思えた。また、くらくらする。熱に負けて閉じてしまいそうな瞳を無理やり開いて、彼女の手を離す。そして行き場のなくなった俺の手は彼女の首と背中にまわした。ふんわりとした彼女の髪が鼻に触れて、思わず俺はの髪にキスを落とした。これ以上ないくらいに近づいた俺は、どきどきも、くらくらもして、もう、わけがわからない。この胸の高鳴りは熱なのか気持ちなのかはわからないが、とりあえず今言いたいことは、わかる。


「もう少し、ここにいてくれないか」



( 080215 とわに愛をこめて!  )