君の音が君に還るまで

練習室が開いてないだなんて、ついてない。予約を取らなかった自分を恨むべきなのか、と大きな溜め息を吐きながらわたしは屋上への階段をのぼる。学園を上から一望できる屋上は、自身の好きな場所ランキング3位に入るほど、素敵な場所だと思う。この屋上からの夜景を一度見てみたいなんて思ったことはあるけれど、残念ながら夜中に学園に忍び込むなんておおそれた事のできる性格ではないので、それが果たされることはないだろう。一段一段、しっかり段を踏んで屋上への扉へと辿り着いた私は、風に押されて重くなっている扉を開けた。

来訪者への歓迎のつもりなのか、屋上へ足を踏み入れたわたしに向けて痛い程の風が吹き付けられた。その熱烈な歓迎を受けて、無意識に膝ががくがくと震えるのが分かる。

「さ、む、い!」

こんな真冬に屋上に出てくる物好きなやつなんてわたしくらいしかいない。だから、いくら大声を出して文句を言おうと問題ないと思っていた。頭上から声がかかるまでは。

「騒がしいと思えば…君か」

どうやら、この学院に物好きはわたし以外にもいたようだ。屋上に人がいたなんてこれっぽっちも思っていなかったわたしは、突然の声にびくりと肩を震わせてその方向を向いた。

「…なんだ月森かあ、びっくりさせないでよ!」
「それはこっちの台詞だ」

不機嫌そうにこっちを見下ろす月森の手には見慣れたヴァイオリンがある。彼はよく屋上で練習をしていたが、いまもこんな寒空の下で弾いていたのだろうか。なんだか少し離れた距離にもどかしくなり、わたしは彼のいるタンク上へと続く階段をのぼった。

「集中できないだろう、帰ってくれ」
「…月森、友達いないでしょ」
「………君も人の事は言えないだろう」
「あんたよりは確実にいるから!」

少なくとも彼、月森蓮に友人と呼べる人物がいたという話は聞いた事がない。いや、見たことがないと言った方が正しいだろうか。

「…そういえば君はこの間普通科の奴と話していたな。その友達とやらか?」
「(話逸らした?)友達というより親友。彼女、音楽やってたのよ」

しかもバイオリン。にんまり笑って付け足したその言葉に、月森は眉をぴくりと動かした。あまり人と関わろうとしない月森でも、どうやら同弾者には興味があるらしい。

「あーあ。あの子と通いたかったな」
「どうしてそこまで彼女にこだわる?」
「…簡単。ただ、コンチェルトがしたかったのよ」

約束をしたわけでも、コンチェルトをしたいと告げた事もなかった。けどこのまま音楽を続けていくなら必然的にそれをすることになると思ってた、

「…いや、思いこんでたのよ、一緒、だって」
「………それで」
「彼女は音楽を止めたわ」

それについては何も言わなかった。彼女の音は勿論、彼女のもので、わたしがどうと出来るものではないから。だから、笑って、受け止める事しか出来なかった。ほんとは、離れていくことが怖くて怖くてしょうがなかったのだけど。それに、止めると決めた彼女にどうしてと問う事は出来ない。するべきではない。いつか、彼女が話してくれるまでは。

「それに、あの子はたぶん、時々弾いてる」
「……どうして分かる?」
「雰囲気よ、雰囲気」

そうとしか言いようがない。ずっと隣にいた彼女だから、なんとなく分かる。それに小さい頃から親しんできたものを突然手放せる程、彼女は大人ではない。

「…ねえ」
「なんだ」
「友達、欲しくない?」

もうピアノはわたしの音楽に組み込まれている。簡単になんかは抜き出せない。それと同じでわたしの中には彼女が組み込まれてしまっているから。親友という枠で収まりきらない何かで。

「そんなもの必要ない」

きっと彼女はキッカケを求めている。再び音楽と触れ合えるキッカケを。

「…だが、君の親友の音は聞いてみたい」

いつだったか。
彼女がわたしの音と一緒に、楽しそうに口ずさんでいたのは。
いつだったか。
幸せそうにバイオリンをケースから出して抱きしめる彼女がそこにいた、のは。

「名前は?」

強い風と一緒に月森の声がのって、わたしの耳に届く。こんな風にわたしの音はきみに届いていたのかな。

よ」

(//20080204)