「ソ、ド」 ああ、懐かしい。暫く見ていなかったそれがなんだか懐かしくなって、親しみをこめながら、音符を口ずさむ。音符たちはまるで風でワルツを奏でるかのように、踊っている。風で舞う楽譜は、私の頭上をひらりひらりと行ったり来たりして、なかなか地に着こうとしない。この楽譜の持ち主はきつい性格で楽譜に嫌われているのかな。そんな馬鹿らしいことを考えながらも、飛んでいるそれを放っておくのも可哀想なので、少しジャンプして手から逃れようとする楽譜たちを捕まえていく。一枚一枚掴まえて行く度に、見覚えのある曲が手元に完成した。頭に浮かんだ曲名を口に出そうとしたその時、草の蔭から突然人が現れた。 真っ白ではない、バニラ色の制服が真っ先に目に入り、音楽科の人かとふと思う。視線を上にあげていくと、その男子生徒の手に楽譜が握られていることに気がついた。どうやら、この人が楽譜の持ち主らしい。不機嫌そうに眉を寄せ、表情を崩さないその姿を見て、やっぱり楽譜に嫌われてそうだなと勝手に想像を膨らませた。 「はい」 「!…すまない、ありがとう」 風に揺れる名前の知らない音楽科の彼の髪は、まるで電光を感じさせるような冷たい青色を帯びていて、まさに彼にぴったりだ、と思った。音楽科くんは、わたしから楽譜を受け取ると、彼が元から持っていた楽譜と照らし合わせる。どうやら枚数を確認しているようだ。 「ヴァイオリンソナタ、やるんですか?」 「…あ、ああ」 それまで楽譜に向いていた音楽科くんの視線が初めてわたしの顔を捉えた。瞳は少しだけくすんだゴールドに染まっていて、奥にいくほど灰色がかっている様は、とおいとおい深海を思い浮かべた。上を向いたことで、その瞳に光が走る。 一匹狼のイメージだったのに、ソナタを演奏するのか。意外だなんて思って、へえ、と声を漏らすとその意味を感じ取ったのか音楽科くんは不機嫌そうに目を伏せた。失礼だったかな、心の中で少し心配しながら彼を見ていると、ぼそりと溜息を零す。 「……無理やりだ、俺はいつもソロだからな」 「やっぱり」 思わず本音が口から出てしまい、すぐにごめん、と音楽科くんに謝罪する。音楽科くんは別にいいと気にもしない様子でまた視線を楽譜に戻した。一度光を獲た瞳は、今は深海に沈んでいる。 「…君は普通科なのにヴァイオリンの知識があるのか?」 「え?ああ、まあ」 ちょっとね。と答えをぼかすと、そうか、と音楽科くんは深く追求しようとはしなかった。どうやら聞かれたくないという思いが空気をつたって届いたらしい。きっと彼も今、さっきのわたしと同じく勝手な想像を膨らませているのかもしれない。本当に興味がなかったのかもしれないけれど。 多分後者だな、とまた勝手に考えながら、茜色のベールに包まれた空をわたしは見上げた。薄っすらと夜の影が侵食している空に、チャコール・グレイを帯びて消えかかっている雲はどこまでもはかなくて、きれいだ。何処まで行こうと、それらが途切れることはない。中庭の小さな池にも、空は映し出されていて、同様に暖かい茜色だ。染まっていくそれらを見て、ああそうだ帰らないと、と急にそんなことを思い出した。 「楽譜は全部ありました?」 「…そうだな、全部ある」 助かった。と再び音楽科くんはわたしと視線をあわせる。瞳には橙色を帯びた黄色が映っていて、まるで空みたいだ、と思わず見惚れてしまう。視線を外して彼の髪を見てみると、青色に夕日の灯があたって、きらきら、きらきらと輝いていた。プラネタリウム。音楽科くんにぴったりな名前だと、そんな、また馬鹿らしいことを考えついて、思わず笑ってしまう。 「じゃあ、また」 「ああ」 次にわたしが音楽科くんに会うときがあるなら、彼の本当の名前が知れますように。小さく祈りを唱えながら、いまだきらきら光を燈している音楽科くんに手を振った。 「ばいばい、プラネタリウム君!」 (願いは遠く、暗い空の中で輝きを失わない星に向けて) (//20080121) |